京都府舞鶴までドライブを 1  〜 舞鶴引揚記念館 〜

京都府舞鶴市まで行ってきました。

舞鶴引揚記念館

昭和の終戦後、兵士や在留邦人たちの満州
シベリアからの引揚げに関する資料が展示されています。

ボランティアの女性の方が館内を案内してくださいました。
丁寧にわかりやすく説明していただき 当時の様子が
よく理解できました。どうもありがとうございました。

記憶に残っているお話をできるだけ書いておこうと思います。


記念館の周囲もすっかり紅葉して



引揚げの港は全国で13ヵ所ありました

引揚者の人数は博多、佐世保がダントツですが、期間の
長さでいえば 舞鶴が一番です。

終戦直後は引揚者は着の身着のままで帰ってきましたが、
年数が経つにつれて 現地で乗船する前に着替えを
支給されたので、さっぱりとした恰好で戻ってきたそうです。

舞鶴は最終の引揚げまでに13年かかっているので、
時が経つにつれて世の中も大きく変わっていたのです。



シベリアに抑留されていた人が家族に宛てた手紙

手紙は仕事ぶりを認められた人にだけに許された褒美だそうです。
当然検閲があり、元気でいることぐらいしか書けず、文字も
カタカナのみです。

また家族に手紙が到着するのは数か月先です。


「千人針」

無事を祈って日本の本土にいる女性たちが
一針一針縫い付けました。
兵士たちは戦場でお腹に巻いていました。


戦地に召集されるための赤紙

赤紙を実際に見たのは始めてで、これがあの赤紙なのかと
胸がつまりました。これ一枚で一人の人生が大きく変わって
しまうのです。 到着地(集合場所?)、部隊名、
到着地へ行くまでの列車が記載されています。


記念館を出て展望台に行く道

展望台からは美しい舞鶴湾を一望できます。


当時の歌謡曲 ”異国の丘”と ”岸壁の母”の歌詞

この2つのメロディーがずっ〜と記念館周辺で流れています。

子どもの頃よく聞いた ”異国の丘”はシベリアで共に
生き抜く仲間を励ます曲だということを始めて知りました。

岸壁の母” は引き揚げてくる息子を待つため東京から
この舞鶴の桟橋まで通う女性をモデルにした歌です。 
その息子さんとは結局会えないまま亡くなり、
その後も息子さんの生死はわかっていません。

この2曲は舞鶴に帰る途中の引揚船の中でかかっていました。

ちなみに田端義男の ”帰り船”は佐世保に戻る引揚船の中で
かかっていたため、佐世保にある浦頭引揚記念平和公園
その歌唱碑が建っています。



保存されている引揚船が着いた桟橋

当時多くの引揚げ者を待つ人々で溢れかえっていました。
どの人も自分の身内の消息を知っている人がいないか
尋ね歩いていたそうです。

綺麗な景色とは対照的に 引揚者とその家族とが
再会できた喜びと 会うことが叶わなかった落胆とが
交錯していたいたんだろうなと思います。


桟橋が復元された由来が書かれています


ここの敷地には1万人くらいの(記憶は定かでありません)人が
収容できる宿舎が建っていました。 舞鶴では引揚者たちに
2〜3泊してもらい、現地の様子や思想調査などを行ったそうです。

最初はGHQが厳しく調査していましたが、やがて1950年に
朝鮮戦争が始まるとそれどころではなくなり 調べも緩くなって
いきました。

ボランティアの方によるとこの記念館には引揚げ経験者の
方ばかりでなく 時には中国、韓国、台湾の方たちも
訪ねてくるそうです。

海外の方たちも日本に対して賛否両論ありますが 
お互いに批判していては前に進みません。
事実を知った上で認め合うことが大事なのです
とおっしゃていました。

説明してくださった女性は小さい頃 実際に桟橋での光景を
見ていらっしゃいます。 やがて当時生きていた人たちが
消えていってしまっても 2度と愚かな戦争をしないために
(平和という言葉は嘘くさいので使いません)当時起こったことを 
きちんと伝えていかなかればいけないと思っています。